2018年7月号 50回目のボストンマラソン

1968年、私は初めてのボストンマラソン出走のためにトレーニングを始めた。私は当時18歳、今振り返れば完全に自己流のトレーニングだった。マラソンのためにどう準備をしたら良いのか、何も知識がなかった。

私がこの決断に及んだプロセスは、次のようなものだった。愛国者の日(Patriot’s day)の日に26マイル走ってみたい。1日1マイルずつ走ればボストンマラソンまでに26マイル走ることになる。それが私の実行した準備であった。大会の2日前までに24マイルに達した。そこで思った。「これで完璧だ。準備万端だ。」しかし、私は少々考えが甘かった。

当時はレースの出場基準を満たさなくても出場できた。ただ大会責任者のジョック・センプルの所に行って、話をつけ、エントリーフォームを貰えばよかった。私はボストンマラソンに申し込む前に5マイル以上走ったことがなかった。そして大会1ヶ月前まで、ロードレースに出たこともなかった。

レースの朝、私はハーバード・スクウェアのカフェテリアでステーキを食べた。その当時は、参加ランナー皆がそうしていたのだ。応援席でランニングウェアに着替え、聴診器を持った医師に体調を診てもらうために、列に並んだ。医師は、選手が健康でレースに参加できることを確認した。

ホプキントンのスタート地点に向かうバスに乗りながら、周りの選手たちが自分たちのトレーニングについて話をしているのを耳にした。私はただ黙って客席に座って、耳から入ってくる会話に驚いた。「何てことだ。とんでも所に来てしまった。」

私の初めてのボストンマラソンの思い出は、この有名なコースにいるという自分自身の誇り、そして両側の沿道で熱心に応援している人々の声援が混じり合ったものだった。当時は900人ほどのランナー達がいたと思う。今のように応援の人でごった返しているということはなかった。最後の直線コースも今より短かった。私は興奮と感謝の念と、レースの最終直線コースを走りながらこみ上げてくる全ての感動と、無事レースを完走できると確信した安堵感で、胸が一杯になった。

レースが終わった後、カフェテリアでビーフシチューを食べた。初めてゴールを切った後のこの思いは、もうこの一度で十分だと思った。踵にできた水ぶくれがひどく痛んだ。でも何故か気分は爽快だった。レースから数ヶ月経って、私は再びボストンに挑戦しようと決意した。初回の挑戦が2回になり、 毎年参加することになった。

これまで約86回のフルマラソンを走ってきた。その中にはマリーン・コープスマラソンが16回、ニューヨークマラソンが数回含まれている。しかし、現在はボストンマラソンしか走っていない。私をボストンマラソンに留まらせている理由は、まさに私が出場最多記録を保持しているからである。これまで、私は50回ボストンを走ってきた。

1972年の5回目のボストンマラソン出場はちょっと危ういものだった。当時私は、上院議員ジョージ・マクガバーン氏の大統領選キャンペーンで仕事をしており、予備選が進むにつれて、州から州へと飛びまわる遊説の出張が多くなっていた。レースに参加するためには、マサチューセッツ州に戻らなければならなかった。

「分かっているよな?ベン。今は僕は動きがとれないんだ。マサチューセッツに戻るにもお金がかかる。」と、自問自答の日々を過ごしていた。しかし私はどうしても走りたかった。選挙キャンペーンのために、トレーニングも十分ではなかったが、私はボストンに向かった。ボストンは私のルーティーンの一部になっていたのだ。ボストンに友達もいたし、ボストンの街が大好きだった。この時点で、私はボストンマラソンは必ず出場すると誓ったのだった。

私は、ボストンのこの極めて独特な雰囲気が、何故かニューオーリンズに似ていると思う。レースのコースは他のレースとはかなり違うが、このマラソンは世界でも有数の名マラソンであり、世界最古の伝統マラソンであり、世界中から選りすぐられた駿足選手が集まってくる。レース当日はフェンウエイ球場でレッドソックスのホーム試合もやっている。素晴らしいボランテイア達と素敵な応援をし続ける観客。何をとっても特別なレースなのである。

このコースを走っている間、私は色々なものを楽しみに走っている。例えば、ウェルズリーカレッジの辺りである。その辺りは中間地点となる。私の息子はボストンカレッジに進学したという事もあり、21マイル地点は私にとって昔よりも特別な場所になっている。フェンウェイ公園は25マイル地点で出てくる。あのあたりでは、高校時代の友人がレッドソックス観戦帰りに私を待っていて応援してくれる。それら全てが、私にとって特別な瞬間なのである。

かつてはボストンのコースをかなり速く走り抜けたものだが、今では当時の2倍の時間がかかるようになってしまった。私はここ15年間、筋失調症という神経の疾患を抱えている。ほとんど知られていない疾患であり、この症状は何が原因なのか分かるまでに4年もかかった。私が筋失調症についてもっと多くの人に知ってもらうようにすれば、同じ疾患を抱える人が、診断までに4年もかからなくて済むようになるかもしれない。そしてもっと早く適切な治療を受けられるようになるだろう。

この筋失調症とは、私の脳が私の左のハムストリング筋にシグナルを送ってしまうのである。少なくとも国立衛生研究所(National Institutes of Health)の医師達はそう言っている。私が左足で状態を前に進めようとする時に、私の脳がハムストリング筋に「伸ばせ」という代わりに「縮めろ」という命令を出してしまうのである。

私の足取りは哀れなほどにギクシャクしている。しかし、驚いたことに、私の身体が適応したのである。私は今でも週3回走ることができる。調子の良い月には50マイル走ることができる。勿論、これはマラソンのトレーニングとは言い難いのだが。私はボストンアスレチック連盟にとても感謝している。連盟は私が出場資格を満たしていないにもかかわらず、私が走ることを許可してくれているのである。

「ねえ、ベン。もうボストンマラソン参加が50回に達したよね。十分やったじゃない?」と言う人もいる。私はボストンマラソンを何十回も走ってきたけれど、前より刺激がないし、ワクワク感がないということがあるだろうか?私はそんな風に感じたことは一度もない。私のボストンへのスタンスはいつも、「走れる限り、私は走る。」なのである。

だから、私はこれからもずっとボストンに出かけていくのだ。

Bennett Beach

ベネット・ビーチ
50回ボストンマラソンエントリーランナー
当翻訳は、2018年ボストンマラソンを機にエキスポで販売されていた「OUTSIDE/in」という単行本の一部のうち、心を打たれた記事を選んで和訳したものです。122回ボストンマラソンが、私にとって連続10回目のボストンであったため、それを記念して、自社のEEWブログに2回目の掲載をさせて頂きました。EEWとの関連性が低いとお感じになった方は、ご容赦ください。